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「本能寺の変」の首謀者・明智光秀の娘! 細川ガラシャの「悲運」とは

日本史あやしい話12


織田信長を死に追いやった明智光秀。その娘で、細川忠興に嫁いだのがお玉、のちの細川ガラシャであった。父・光秀を見殺しにした忠興に対して、お玉は不信感を拭い去ることができなかった。さらに忠興のモラハラとも思えるような過干渉にも耐えかねて、最後はキリストの教えにすがったのである。その結末や、いかに?


 

■父・明智光秀の謀反によって、暮らしが一変

 

細川忠興・細川ガラシャ像(京都 勝竜寺城公園)

 

 細川ガラシャとは、本能寺の変で織田信長を死に追いやった明智光秀の娘である。ガラシャは洗礼名、諱(いみな)は、玉(珠)あるいは玉子という。

 

 光秀は、ひと時とはいえ天下人になった御仁であった。しかし、十数日後には反逆者として秀吉に追われた挙句、落ち武者狩りの農民の手にかかって竹槍で突き殺されている。

 

 父・光秀が反逆者として殺され、娘・お玉が悲嘆にくれたことはいうまでもない。すでに父の主君・信長に命じられて細川忠興のもとに嫁いでいたお玉は、丹後の宮津城に夫とともに暮らしていた。そこに、突然の悲報。夫婦ともども、目を白黒させたことだろう。

 

 細川家に嫁いで以来、すでに4年。二人の間には、長女・於長と長男・忠隆も生まれ、仲睦まじく暮らしてきたはずであった。それが、父の所業によって、暮らしぶりが一変。

 

 謀反人の娘となったわけだから、本来なら細川家から追い出されて実家に戻されるはずである。しかし、忠興は妻への未練を断ち切れなかったのか、丹後領内の味土野(みどの)という地に幽閉するに留めたようである。

 

 気性の荒い忠興が怒り狂って妻を閉じ込めたかのようにも見えるが、その後も二人は睦みあっていた。幽閉中に彼女が二人もの息子を産んでいるのがその証である。

 

■モラハラ夫だった細川忠興

 

 その後、秀吉の慈悲によって、幽閉は解かれた。お玉は細川家の大坂屋敷へ移り住むことになるが、彼女にとってそれは幽閉以上に辛いものになった。

 

 夫・忠興が、妻を愛おしむというより、むしろ過干渉ともいうべき性癖によって、彼女を追い詰めていったからである。彼女の周りに監視人を付けて、四六時中見張ったのだ。

 

 それが彼女をいとおしむ余りの嫉妬と言われることもあるが、思いやりに欠けるところから鑑みれば、本来のいとおしみとは無縁というべきだろう。今でいうところの、モラハラ夫というべきかもしれない。

 

「お玉の美貌に目を奪われた大工を、忠興がその場で斬り殺してしまった」という逸話もある。ただ、「忠興がお玉に棄教を迫っているのを聞かれ、仕方なく殺した」との別説のほうが真実味がある。もちろん、これまた真相は定かではない。

 

 また、忠興に謀殺された同門の一色五郎の怨霊を恐れ、一色稲荷神社まで創建されており、忠興の暴君ぶりは各所で伝えられていることにも目を向けておきたい。

 

 加えて、お玉にはもともと夫・忠興に一種の不信感が潜んでいたことも忘れてはならないだろう。原因は、本能寺の変の直後、忠興およびその父・幽斎が、お玉の父・光秀を裏切ったことである。

 

 実は、本能寺の変で信長を討った直後、光秀は細川家に味方についてくれるように呼びかけていた。それに、細川父子は応じなかったのだ。

 

 細川家の協力を得られなくなったことで、光秀が窮地に陥り、挙句殺害されてしまった。お玉にとっては、父を見殺しにした夫だったわけで、失望以上の憎しみさえ抱いていたと思える。夫と義父に裏切られた挙句、モラハラ夫の厳しい監視下に置かれたお玉。その精神が次第に蝕まれていくのは、時間の問題であった。

 

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藤井勝彦ふじい かつひこ

1955年大阪生まれ。歴史紀行作家・写真家。『日本神話の迷宮』『日本神話の謎を歩く』(天夢人)、『邪馬台国』『三国志合戰事典』『図解三国志』『図解ダーティヒロイン』(新紀元社)、『神々が宿る絶景100』(宝島社)、『写真で見る三国志』『世界遺産 富士山を行く!』『世界の国ぐに ビジュアル事典』(メイツ出版)、『中国の世界遺産』(JTBパブリッシング)など、日本および中国の古代史関連等の書籍を多数出版している。

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